花草木編
2010.06.19 矢田寺あじさいウォーキング
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mixiのウォーキングイベントとして、 大和郡山市の矢田寺へ歩くウォーキングイベントがあったので、参加してきました。
矢田寺だけでなく、その前に郡山城も通りました。

















集合場所は近鉄郡山駅。



郡山城跡のお堀の向こうに郡山高校が
















郡山城跡の外堀

石垣沿いを行く

郡山高校の校舎。
ここには江戸時代、城主の居館や藩の政庁があった


郡山城

豊臣政権では秀吉の弟秀長の居城となり、江戸時代には郡山藩の藩庁が置かれた。
郡山家、筒井家の支配を経て、1585年(天正13年)豊臣秀吉の弟豊臣秀長が大和国・和泉国・紀伊国三ヵ国100万石余の領主として郡山城に入る。秀長 は城を100万石の居城に相応しい大規模なものに拡大。
その時に、奈良は良質の石材に乏しかった為、町民からの徴発で石地蔵や墓石などの石仏文化の遺品が流用された。
奈良の市中で行われていた商売を郡山城周辺に統合。
『郡山惣町日記』によると、本町、魚塩町、堺町、柳町、今井町、綿町、藺町、奈良町、雑穀町、茶町、材木町、紺屋町、豆腐町、鍛冶屋町の14町がみられ る。鍛冶屋町は枝町になったが、それ以外の十三町は今も残っている。
秀長が亡くなった後、何度か城主が変わったが、江戸時代前期は本多氏や松平氏、1724年(享保9年)以降は柳沢氏が城主となり明治維新を迎える。
現在桜が植えられ、日本さくら名所100選にも選ばれている
Wikipedia: 郡山城(大和国)より編集)















内堀沿いを歩く。左奥に見えるのが郡山城の 資料を保管している柳沢文庫

(↑)庭園にある小屋で早い昼食

郡山城を出て、矢田寺へ歩き始める(→)
















大和郡山市は金魚すくいの大会が行われる。
ということで、マンホールに金魚の絵が

矢田寺手前の坂へ。
右にはバスの臨時停留書が。
本来はもう少し奥にあるが、渋滞を避けるため手前に置かれている

ここで道は狭くなり、矢田寺の山道が始まる














矢田山ふるさと工房

(↑)矢田寺には手作りのお店が数多くある

参道の途中に地蔵が(→)


矢田寺

矢田寺(やたでら)は、奈良県大和郡山市にある高野山真言宗 の寺院。山号は矢田山。正式の寺号を金剛山寺(こんごうせんじ)という。別名「あじさい寺」とも呼ばれ、境内には約8000本、60種のアジサイが植えら れている。 さらに矢田寺大門坊では、古くより容眞御流(ようしんごりゅう)華道の家元として、華道研究も盛んに行われている
寺伝によれば天武天皇の勅願により天武天皇8年(679年)に智通が開基。七堂伽藍四十八坊を造営、十一面観音菩薩と吉祥天 を安置したという。その後の戦乱などにより多くを焼失し、現在は矢田寺北僧坊・矢田寺大門坊・矢田寺念仏院・矢田寺南僧坊の4つの僧坊を総称して矢田寺と 呼ばれている。
矢田寺の名は万葉の昔からの地名が矢田の里であったことに由来する。
Wikipedia: 矢田寺より編集)














(↑)山門が見えてきた

矢田寺の本当の名前は、矢田山金剛山寺
(→)

山門からjは上り階段が続く。
道端に地蔵やアジサイが点在










(←)地蔵はこんなにも大きい




矢田寺の案内図
(→)




本堂が見えてきた
















その大きさが分かる本堂

本堂から見た参道












(←)本堂の前にある十三宝塔





本堂の脇にも地蔵が(→)

本堂の脇に如来さん

















「有縁無縁」。仏の数々

南僧坊

櫓が立っている












(←)本堂前の灯籠。「寛政三年」の文字が





畳一畳ほどの大きさのある「みそ なめ地蔵」(→)

あじさい圓の中にあった地蔵




寺内に咲いていたアジサイをまとめて紹介













































アジサイの花びらをアリンコがたどっていた















































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